猫に舐められる夢を見た。
だが現実は猫なんて可愛らしいもんでもなんでもなく、でかい男が人の腕を押さえつけてじっと手のひらに見入って、線を辿るように指先を這わせていた。
ああ、でも狐って確かイヌ科だったよなあ。
そんなことを思っていると今度は手のひらに顔近づけ、濡れた舌を滑らせていた。舌先の触れるか触れないかの距離が妙にくすぐったい。
「ひとの手に何やってんだバカ」
「んー。なんかな、義骸ってすごいなーて思て。手相までしっかり再現してあるんやで」
突然声を掛けたことに驚きもせずに、それでいて視線すらくれないまま市丸は平然と返してきた。
ようやく合わせて取れた連休。技術開発局から義骸を調達し、誰にも邪魔されないようにと現世にまで赴き二人してヒマ人を満喫していた。何を目的として行くわけでもなく、あえて言うなら二人でいることを目的として。
さんざん出歩いてホテルに戻ると、今度はただひたすらに欲を貪る。離れていた時間にぽっかり空いた腹に惜しげもなく情熱を喰わされる。満腹になったら今度はいつの間にか眠ってしまったようだ。ご丁寧に身体を拭いて更に寝衣まで着せてある。
だいたい寝入って一時間ほどといったところか。こいつはその間ずっとこんな感じで義骸観察でもしてたのだろうか。
「適当だろそんなん」
「そないなことあらへんよ。ボク日番谷はんの手相しっかり覚えとるもん」
「お前って相変わらず無駄なところに異常な能力発揮するよな」
呆れた声を出して、抑えられた方とは逆の手のひらを覗き込んだ。
手相まできっちり同じにしているかどうかまでは判別できないが、赤みや細かな皺やうっすらと透けて見える血管が作り物のはずの人形に体温を感じさせた。しかしじっくり見ないと気づかないような小さな傷跡まで再現してあるのを見つけると逆に気味が悪くなる。
入れ物のくせに本物の躰じみた人形も、それを作り出す技術開発局の連中も。
蹴散らすようにため息をついて額に手のひらを落とした。べちりと張り付いた手のひらとの接触から感じる己の体温。
市丸は飽きもせずひとの腕を押さえつけて指を滑らせ、こちらを見ようともしない。だいたい、今更義骸の何が珍しいというのか。
「おい、いい加減離せ。腕が痺れる」
「んー」
「そんなに観察したいんだったら貸してやるから離せ。出るから」
「出るて、抜け殻に興味ないんやけど」
「義骸が気になるんだろ。一晩貸してやるから勝手に使えよ。だから俺の安眠邪魔すんな」
「日番谷はん、もしかして妬いてんの?」
アホか、と心底呆れた目で見下してやる。実際には幾分か見上げる形になっているが見下してやる。
何が悲しくて自分を模した人形に妬かなきゃならないんだか。
「ボクあんま義骸て使ったことないんやけど」
祈るように瞳を閉じて、小さなてのひらに顔をうずめながら。
ぽつりと呟くように、続けた。
義骸の中に二人いっぺんに入ったら、ボクら一つになれるんかな。
「ムリだろ。どっちかが弾かれて外に出されるのがオチだ」
「うわー。夢ないなあ」
「アホらしい」
一蹴する。まさかこの男は睦言の常套句のような戯言を本気で望んでいるとでもいうのか。
「日番谷はんは、ないん? 一つになれたらずっと一緒に居れるんにとか、思うたりはせんの?」
「ないな。一度も。ひとが混ざり合うことも一つになれることも無いし、そんな有り得ない事に望みなんてもたねえよ。それこそ、現実になるはずのない夢物語だろ」
「なして、そないなこと言うん?」
伏せた上体を上げ、眉を下げた情けない表情で市丸は見下ろしてきた。
一体何を期待していたのだろう。そうだ、と同意して欲しかったのか? 俺がそんなこと願うように見えるのか?
「夢だよ。どんだけ一緒に居て抱き合ったって身体も意識も別のもので違う存在なんだ。溶けて混ざり合うことも無いし、死んで霊子が散り散りになったって一つになんかなりはしない」
市丸が寝転がる身体に馬乗りになってきて、両手が顔の横に勢いをつけて落とされた。弾力のある枕はその勢いを簡単に受け止めてしまい、バスっという妙に軽い音が笑える気がした。
「市丸」
節ばった大きな手が寝衣の襟元を掴み力任せに引き裂く。止められたボタンが数個弾け飛ぶのを視線の端で見送りながら、降りてくる男の影を見つめていた。
肌蹴た胸元に残る先頃の跡を追う様に、濡れた舌が道を作る。衣を剥ぎ取りながら肌を撫でる執拗なまでの熱。血液の流れを逆流させるような愛撫に苦しさを覚え、眉を寄せて首を仰け反らせた。
「いち、まるっ……」
「ボクは、いつやって日番谷はんと一緒に居りたい思うとるよ。せやのに、日番谷はんは違うん?」
「あっ……、ばか……かっ……」
「このまま時間が止まってしまえばええ。他の誰も目に付かん箱のような部屋ん中で、二人っきり。ずっとこうやってお互い貪り合って、最後は誰にも離されんようにドロドロに溶けて混ざってしまえたらええのに」
「はっ……。ゴメンだな、おれは、そんなの……っん……」
俺はお前と一つになんてなりたくない。時間なんて止まらなくてもいい。
ただ――――。
「黙り」
噛み付くような口付け。蠢く舌に口内が侵食され、息苦しさに爪を立てる。滑った爪先は市丸の肌を傷つけ、赤い線を残した。落ちた手首を掴まれ、布団に縫い付けられる。力任せに押さえ込む大きな手が痛い。
長い口付けから解放されてまだ息苦しさにむせながら、うっすらと瞳を開けた。
真上から見下ろす碧玉は暗く、眉を寄せるその顔は泣いているようにも見える。
「違うん、やけどな……。ホンマはもっと違くて、ただ、こうやって……」
市丸の声音がぐずる子供のそれに似て、ゆらゆらと耳に響く。うまく形に出来ないものに苛立ち、それをぶつける様に荒々しく蹂躙し始めた。両手は未だに手首を掴まれ押さえ込まれたまま。逃げるとでも思っているのかギシギシと締め付けてくる。
「ただ、ずっと二人で一緒に居りたいだけなんや……」
縋りつくような必死さで熱を辿る。その不器用で乱暴な愛撫とは裏腹に弱弱しく不安定な呟き。
掌の感触を受け止めながら、途切れる呼吸の合間に一言、バカと呟いた。
ゆっくりと起き上がった半身が軋み小さく舌打ちした。
灯りを失った部屋。だが今まで眠りに落ちていた瞳はぼんやりとながらも形を捉えることができる。
こちらが目を覚ましたことに気づきもせずにのうのうと眠り続ける傍らの男に唇を尖らせた。
「勝手に突っ走ってんじゃねーよ、ばーか……」
市丸はこうみえてロマンチストだ。神や奇跡は信じないけれど、儚い永遠に夢を見る。有り得ない空想だと解っていても心のどこかに現実になる可能性を期待している。それを口にすることで、自分が同意することを求めているのだ。
自分は神も奇跡も信じないし、永遠も欲しいとは思わない。迫り来る別れには必死で足掻くだろう。けれどいつかは逃げられないものだと理解もしている。
「だからって、俺が何も望んでないと思ってるのか?」
手を伸ばして、眠る顔に掛かる髪を一房掴み、くいくいと引っ張る。しかしよほど深い眠りにいるのか、市丸はいっこうに起きる気配を見せない。呆れた息を吐いて、ごそごそと市丸の懐にもぐりこみ、裸の胸板にてのひらを当てた。
掌からじわりじわりと伝わる体温。自分とは異なる、他人の暖かい熱。
ひとつになりたい、なんて。気づいていないのか、お前は。
別の存在だからこそ感じる他人の熱の心地よさを。
離れるからこそ再会の喜びを。
二人だからこそ、共有できるものがあるということを。
一つにならなくてもいい。永遠でなくてもいい。いがみ合っても、傷つけてしまっても。
結局は二人ともお互いを見つめて、また手を伸ばす。その体温を感じたい。
その熱を感じられるのは、二人は間違いなく共にいるということなんだから。
たとえ形は違っても、望むことは一緒なんだ。
「俺も、お前と一緒に居たいんだ」
まだ夜明けは遠い。でも必ず陽は昇り光が差す。それまではどうか、ここは二人きりの空間で。
呼吸に上下する市丸の胸板に背をくっつけ、しなやかに筋肉のついた腕を手前に伸ばさせて抱き込まれているような形にする。
まるで人形のように好き勝手に動かされる市丸にくすくすと笑いを噛み殺す。
目の前に持ってきた大きな掌の暖かさを胸に抱きこみ、そのままゆっくりと眠りに入っていった。
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